ウオズミさん

玄関のチャイムがささやかに私を呼ぶ。

夕食前でぐずる息子を抱えて扉を開けると、セールスマンが立っていた。彼は苛々している私に、折り目正しく名刺を差しだす。

主人が帰っておりませんので、と頭を下げようとすると、最近いくつかの単語を話すようになった息子が「サカナ!」と叫んだ。息子は名刺にある『魚』という漢字をしきりに指している。

セールスマンの魚住さんが、にっこりとして口をひらこうとしたその瞬間。その唇からぼわりと大きな魚が飛びだした。

(魚)住さんは途端に脱け殻になって、三和土にへたりこむ。わたしは慌てて宙を泳ぐ魚を追いまわしたが、つるりぬるりと開いた窓から逃げられてしまう。残された鱗が西日の差す部屋で、お天気雨のようにきらきらと散った。

困った私は冷蔵庫をあさり、奥から冷凍さんまをひっぱりだす。霜だらけで脂の黄ばんだそれを、(魚)住さんの喉に突っこむ。

ぱちりと目覚めた魚住さんは、来た時よりも随分のっぽになって、ぎくしゃくと帰っていった。

| | コメント (2)

水溶性

 おはよう。母です。

 僕の枕元に座っていた女のひとは、確かにそう言った。近くの神社へお参りに行った翌日のことだ。

 御神水に浸すと溶けるという紙の願い符を、父は嬉しそうに2枚買った。でも、ふざけて僕の願い事を覗こうとするので、丸めてポケットへ突っこんだままになっていた。

 女のひとは、毎朝おはようを口にすると、あとは部屋の隅でぼうっとしている。たまに僕を観察しているみたいだ。

 おかあさんという存在は初めてなんだけれど、少し違う気がする。けれど色白だし、おばさんぽくないから悪くないのかもしれない。

 案外、頼めば色々としてくれるのかもな。そう考えて、僕はお風呂上がりに母の前に座った。ねぇ、髪の毛乾かしてよ。

 母は軽く首を傾げたあと、ふーっと息を吹きかけた。

 雑すぎるよ、と僕が怒って頭を振ると、水滴が激しく散った。攻撃をあびた母の全身に、みるみるうちに水玉模様のしみがひろがってゆく。

 溶け残った母も、僕の掌の汗で消えた。

| | コメント (4)

梅雨ごもり

 雨が降った。昨日も降った。おとといも、その前も降った。

 今朝、食事を摂りに台所へ向かうと、テーブルの上に父と兄のお茶碗がでていなかった。

 フライパンに蓋をしながら、母が庭のほうを顎でさす。すでに葉ばかりになったツツジの茂みとおなじくらいの大きさの銀の繭がふたつ、転がっている。

 ゆうべ寝入りばなに私が耳にした、サキサキサキという音は鋏だったのだ。

 落下途中の雨の糸を長めに切りおとして紡いだ寝袋は、ひいやりとやわらかで、真夏の太陽でとことん蒸発されるまで破れない。

 彼らはさっさと、こもってしまったのだ。堪え性がないくせに、毎年この時季だけは素早いひと達だ。

 いつもより焦げ付いためだまやきをがりがりと剥がしながら、母が唇をゆがめて笑う。

 冷夏ならいいわね。風邪ひいちゃえばいいのよ。

| | コメント (4)

勝手

 ちょっとした諍いの、戒めのつもりで恋人の家を飛びだした。夜の田舎道はひと気がなく、見渡すかぎり暗くて、孤独を感じる隙もない。風もないのに、叢が揺れた。

 あ。

 声を発する間もなく、私は地中に引きずりこまれていた。アイシュルル……アイシュルルという囁きに似た鳴き声で、自分がジアイモグラの棲み処にいることを識る。

 この一帯は、彼らの繁殖地であった。

 黒く艶やかなモグラの目が、私を見下ろしている。落ち着きのない、遠慮がちな仕種で周囲を嗅ぎまわりながらも、私をかき抱く前肢の力は緩むことがない。

 ほんのすこし高い体温が、じわりと私に伝わってくる。モグラが身体を捩るたび、アイシュルルと呼気がかかる。巣穴を埋め尽さんとばかりに膨らんでゆく。ほたほたした柔らかな肉が、私の鼻先にまで迫った。くるしい。粉っぽい濃密なモグラの体臭に悪寒がする。

 気力の果てた私は、朦朧とモグラの顎を眺めているしかなかった。

 アイシテルアイシテルアイシテル

 モグラが喉を震わせて言う。それを聞くごとに私は、穴より深い場所へ沈む。 

| | コメント (0)

窒音

 どれほどの大音量でも音漏れしないイヤフォンを手にいれた。耳の穴に吸いつくように密着して、髪の毛いっぽんの隙間もない。

 一度、カラダじゅうを音楽でいっぱいにしたいと希ってきた。私はヴォリウムを最大まで上げる。

 鼓膜を跳ねた旋律は、てんでばらばらに散ってゆく。脳の皺に引っかかる。視神経をかすめる。胃袋に落ちる。臓器がそれぞれに震えだす。

 途切れることなく、聴き慣れた曲たちが耳から流し込まれてくる。臍の下まで溜まった音楽がたぷんと揺れる。踊るとシェイクされて酔いそうだ。圧のかかった下半身が膨れ、はちはちになって膝も曲げられない。

 体内に籠もった曲は混ざりあって渦を生み、みる間に音嵩を増す。鎖骨を超えた。じきに頭の天辺まで達するだろう。

 くる……くる…くる!

 今にもばしょんと弾けそうな私に、旧いラブソングが容赦なく注ぐ。

 多分最後になる曲は、残念ながら気分じゃなかった。

| | コメント (3)

あかるいね

 恋人の住まいに入るのは、はじめてだった。

 ベランダへ続くサッシに貼りついて夜景をみつめる私を、彼は笑った。窓辺の温度はすこし低くて身震いがきた。

 都心部から伸びる道路を辿る自動車の列が、循環する血液を連想させる。どこかを巡る電車の光が這い回る。

 恋人がぱちんと部屋の灯りを点けた。

 窓ガラスが鏡になり、疲れた頬をした<私>が閉じこもっている。

 ぱしぱしぱし。瞬きを繰り返す。ぱしぱしぱし。そんなわけはないのだが、瞼をあげるタイミングがずれている気がして、私はガラスに映った<私>を凝視する。

 ぱしぱしぱ。

 息がかかるほど近くで観察している私に、<私>はハッと動きをとめた。

 恋人の淹れるコーヒーの匂いが漂う。

 <私>は私にキスをした。かすかに唇の中央だけが触れあう。やわらかに。

 長い瞬きが徐々に醒める。<私>の背後の部屋の奥行きがやけに鮮明だ。カップを両手に恋人は、言葉を発する。私には聞こえない。

 恋人の膝になだれる<私>の姿を眺めていた。まるで満たされているようだ。

 

 

*******

三里アキラさん “創作家さんに10個のお題”より 『あかるいね』

 

| | コメント (2)

プラスティックロマンス

 我こそは恋愛の求道者である、と言い張る男と縁があった。なるほど、彼は行き届いていて、何かしらの贈りものを欠かさず、レディファーストで大変紳士的なのだった。

 男はキラキラしたものがすきで、高いところがすきだったので、私達は大抵そういうところへ行った。男と会うときにはいつも歩調がふらつく。それを見つめる男の目が私はすきで、より一層足元がゆるくなった。

 今夜もいつものように、まばゆい光に目を眩ませながら酔っ払う私に男が告げた。

 あなたは、僕があなたをあいしているから僕をすきになったのでしょう。

 そうかもしれない。夢見心地で私は答える。すこし微笑んでさえいたかもしれない。男は重くながいため息を吐いた。さようなら。

 ぴんとした男の背中を見送って、私は残されたグラスを綺麗に空ける。のみ下すたびに熱く喉にしみる。

 その道のひとでさえ、気付かなかった事なのだから、この私に解りようがない。

 お勘定をすませて、おもてへでる。泣きながら帰った。

| | コメント (0)

別世界

 名前をよばれた。衝かれたように息が詰まり、振り返るとやはりユウさんだった。

 夜遅く、ともいえない時間だが、駅のホームはすでに人影が疎らだ。ユウさんが、食事にでも…と誘ってくれるのを想像するが、多分何も起こらない。なんとなく、最近の気候の話をする。

 駅に沿って見下ろすように、私達の仕事場が建っている。真四角の、ガラス張りのビルだ。

 ユウさんは、私とは逆方向の電車で帰るという。

 脳天気な声のアナウンスがなって、私の乗るべき電車が滑り込んできた。明かりがビルに反射して眩い。突風でみだれた前髪の隙間からそれを見る。

「じゃあ」

 かるく会釈しあって、私達は背を向けた。車内に入ってからユウさんをそっと探すと、ビルに映ったかがやく電車のなかで網棚をつかう、その後ろあたまが見えていた。

 ユウさんの電車は、きらきらと光の帯を残し、引き返してゆく。

 私は地面を這い、夜を進んでゆく。

| | コメント (2)

ささくれ

 あたしたちは双生児みたいにくっついて、いつまでもいつまでも一緒にいたい。いちまいの掛布団を分けあって、ころころころころ転がっていたい。

 そう言ったら、あなたは笑った。その顔がきらい。

 焦れたあたしは、拳を振り回す。あなたとあたしはコトバが通じないから、結局こんなふうになる。あなたは不便をかんじていないみたい。変なの。

 あなたはあたしの裸の背中を撫でてくれる。やめて。そのがさがさの大きな手もきらい。

 あたしは爪切りを探してあげる。でも、あなたは待たずに自分の歯でこそげていた。

 血がでたんじゃないかしら。手をとると、ささくれがまだ剥けかかって残っている。つい、皮をぴりぴり引っぱると、空っぽでまっ暗な彼の内部がのぞいた。

 道理で。

 その暗闇に、あたしの涙が吸いこまれてゆく。

 あなたと抱きあうと、胸がぽかんと虚しくなるのは、そのせいだったのね。

 最後に笑顔がみたかったけど、あたしはすでに頭からなにから、なんにもなかった。

| | コメント (0)

いちじくの食べかた

 たんぽぽのミルクみたいな白いのを、指に擦りつけていたら叱られた。ささやかに毛羽のある、べとついた膚をそっとつかむ。

 しりに親指をあてて、むしりとひらいてやると、それは崩れるように簡単にうらがえる。うっすら愛らしく染まった果肉が掌をぬらす。わたしにはこまかく震えているようにみえる。押しつけがましく。

 唇を肉に沈める。とたんにわたしは外皮との境をみうしなう。どこまで食べていいものか解らず、舐めるように貪ってしまう。

「よく熟れて美味しいでしょう」

 流し台から母の声がする。

 傷みかけたいちじくは甘くない。微かながら、ねばるような芳香がする。

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

お知らせ 日々のこと 超短編