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山の魔物

今年の夏は山に登った。乗鞍岳の剣ヶ峰まで行った。
 
3000メートル級の山とはいえ、標高2700メートル地点まではバスがある。わたしは殆どなんの用意もせず、普段の服装といつものスニーカーでそのバスに揺られていた。登山の心構えがまったくなっていない。
 
道中、父に「おまえ、なめとんか」と8回くらい怒られたけれど、わたしは父に騙されて乗鞍に連れて行かれたため、聞く耳を持たなかった。上高地に行くっていうから来たのに。登山は嫌って言ったのに。
 
(そういえば、登山の1か月ほど前に父がいきなりトレッキングシューズを買ってやると言いだしたことがあり、どこで履くねん! と断ったのだけれど……。計画的だったのだ)
 
多少起伏のあるハイキングコース、といった道を親子で黙々と歩いていく。何度パンフレットを確認してみても、一番高いところ(剣ヶ峰)を目指しているのは明白。お花畑を散策したいという意見を無視され、練習はいらないと言っているのに100メートルほどの峰に登らされ、あの写真を撮れここの写真を撮れ、と言いつけられて、美しい景色を前にしても怒り以外の感情が湧いてこない。
 
剣ヶ峰を登山道の入り口から仰ぐと、青い服を着た人々が峰に連なっている様子が見えた。あまりの途方ない高さに、土下座してでも帰りたくなったけれども、父が有無を言わさず進んでいくので、泣く泣く後に続いた。
 
 
周りの人全員が変態に見える。まだ始まってもいないけれど、登り終えたとてそこがゴールではないのだ。ここからバス乗り場に戻る道のりを考えただけでおもう。悪夢。もうすでに充分に悪夢。みんな苦しいのが好きなのか。街ではあんまりいないビビットな配色の服装の人々が、喜々として土を踏んでゆく。Mってこういうこと? 「Mの皮をかぶったドS」と長年の友人に言わしめたこのわたしには、絶対向いてない。
 
身体がつらくなることに対しては嫌ではなかった。ただ、登って下りるってめんどくさすぎる。きれいな景色はもう見ている。きれいな空気も吸いました。で? 多分これ以上のものってそうないよね? もうネタはほぼ出し尽くしているよね、山よ。登山愛好者はどうしてこんなに面倒なことが何度もできるのか。時に命を懸けて。はぁー、頂上を目的にすると下山がつらくなるから、下りた地点(登山口)を目標にしよう。……うわーん、それやったらすぐそこやん! 目標達成のためには、もう下りたほうが早いやん!
 
足元だけを見て、えっちらおっちら歩を進めていると、なにも考えないようにしようとしていても、延々と考えてしまう。身体のしんどさは予想していたほどではなかった。ただ猛烈に面倒。
  
その面倒さをひたすら堪えて中ほどまで登ったところで、両親が「もう下りよう」と言いだした。よしよし、やっと言ってくれたね!
 
  
立ち止まって休むと、眼下にちいさく麓のお茶屋さんの赤い屋根。顔を上げると、すこし迫ってきた青ジャージの学生が列をなしている峰。
  
「わたし登る」
 
下りるのも面倒になった。まだ体力も大丈夫。行けるな、と感じたら急に楽しくなった。もしも山頂で力尽きたとしたら、もうそこに住んじゃえばいい。どうせ下りるのは面倒だったし。両親を置き去りにしてがしがし登った。
 
ぜーぜー息を切らしていると、下ってきた学生とすれ違うことになった。一学年分の、おそらく中学生がずらりと一列になって「こんにちはー!」「こんにちはー!」「こんにちはー!」「こんにちはー!」……ひとり残らず笑顔で挨拶をよこしてくる。あらまー、元気やねぇ。おばちゃんらしく目を細めてしまう。中学生たちは、足場を選びながらもすたっ、すたっと下りてくる。次々と下りてくる。
 
永遠に続くかのような「こんにちはー!」の波。100ではきかない数の青ジャージ。ぴかぴかの善意を無下にするなんて到底できない。しゃっくりのような息継ぎを挟みながらも挨拶をなんとか返す。動悸が激しすぎて心臓が痛くなってくる。溺れている人は非常に静かなんですよ、と語る水難事故対策の専門家をおもいだした。
 
力を振り絞って離脱し、中学生の挨拶が及ばない岩影で復活を試みるわたしを、初老のご婦人方が談笑しながら抜き去っていった。幼稚園児くらいの男の子をおんぶしたお父さんと、赤ちゃんを抱っこしたお母さんが颯爽と登っていった。平地と変わらない確かな足どり。どうして? あの「こんにちはー!」地獄をこんなにも軽やかに……。
 
山を愛する人々は、とても常人とはおもえない。
 
上りへの道が急に詰まってきた。頂上のご神体にお参りするための列だった。
 
山頂からの眺めは雲の切れ間からたまに覗くくらいで、予想の範疇は超えなかった。けれど、いっちょまえにも開放的な気分になり、見知らぬご夫婦やおじいさんたちと、身体が冷えるまで写真を撮りあいっこしていた。ものすごく高揚していたのに、翌日デジカメを確認したら、必要以上に老けていたのできっと現像はしない。
  
面倒だったなー、という気持ちに今でも変わりはないし、もう登山は嫌なんだけれど、次に登るならやっぱり高い山がいい。
  
その後、頂上まで辿り着いた両親に、わたしは足を引きずってでもお花畑へ行くことを宣言し、温泉の日帰り入浴も堪能して帰るつもりであることを発表した。(わたしは長風呂)
 
 
なかなか終わりそうもない旅に、誰よりもへろへろになった父はわたしを騙して登山に連れて行ったことを後悔していた。
 

 

 


 

 

 


 

 
 

 

 

 

 

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