ねんまつだから
毎年2月くらいにハナウタで出てきて「あ!今更…」とおもうユニコーンの『雪が降る町』を、ここ3日ほどずっと歌っている。そしたら本当に雪が積もってしまった。(わたしの町はあまり雪が降らない)
家族が口々にわたしを責めるので、申し訳なくおもっております。
今年ももう終わり。来年もどうぞよろしくお願い致します。
冷えますので暖かくしてくださいね。
もう歌わないからさ…。
毎年2月くらいにハナウタで出てきて「あ!今更…」とおもうユニコーンの『雪が降る町』を、ここ3日ほどずっと歌っている。そしたら本当に雪が積もってしまった。(わたしの町はあまり雪が降らない)
家族が口々にわたしを責めるので、申し訳なくおもっております。
今年ももう終わり。来年もどうぞよろしくお願い致します。
冷えますので暖かくしてくださいね。
もう歌わないからさ…。
お盆と年の暮れは、かつて京都に住んでいた友人たちが連絡をくれる。京都に帰るから、一緒にごはんでもたべよう、というお誘いだ。
わたしは京都府に生まれた。スナフキンのような吟遊詩人と大恋愛、などという事態にならない限り、このまま京都にいるだろう。
友人たちは、みんな実家は他県にあるのに、遠回りしてまで京都に帰ってくるのだ。どうしてそこまで。
そのときに一番困るのが、京都らしい食べ物がたべたいと言われることだ。らしさ、ってなに?
とりあえず和食か?とおもうのだが、そんなものは日本全国どこにでもある。よそに引っ越した友人(彼女は実家も京都)が「美味しい和菓子とお豆腐は探さないと食べられない」と言っていたが、空きっ腹に甘味とお豆腐というのもな。お腹張らへんわ。
迷いに迷い、結局正解がみつからないまま今年の接待もなんとなく終わった。
普段からたべたいものばっかりたべてないで、来年こそはより濃厚な京都感を提供できるよう訓練を積むべきなのだろうか。
わたしは25日生まれだ。
そのせいで、タキガワ家にはほぼクリスマスがなかった。毎年ディナーは手巻き寿司だし。図々しい話だが、誕生日が近づくにつれて街がキラキラしてくるのは、わたしのためだとしかおもえない。
しかし2歳の甥が、あの赤いのなに? とサンタクロースを指差したことで、新しい風は吹いた。
サンタクロースっていうねん。クリスマスの夜、いい子にプレゼントくれはんねん。
迂闊にも答えてしまったために、甥はすっかり期待するようになってしまった(ちなみに『いい子』部分の説明は案の定スルー)。
実は、妹の旦那さんの誕生日もわたしと同じ。そう、甥っ子は、クリスマスをないがしろにする両家のあいだに生を受けたのだ。まさにアンチクリスマス界のサラブレッド。
けれど大人の事情を子供に負わせるのはいかがなものか…。むやみにおもちゃを与えることや、フロムサンタというところには、多少(おおいに)気になるが、協議の結果、ささやかなものを枕元に置こう、ということになった。
甥がわくわくして眠りにつく頃、わたしは誕生日に備えてケーキを焼いているだろう。長年の決まりだ。
ハッピーバースデー自分。
年賀状が完成した。
近年、ぎりぎりで投函ということが多く、盆を過ぎたあたりから年賀状に使う消しゴムはんこの図案を考えているわたしとしては、不本意だった。自分のせいだけど。
しかし余裕をもって完成したらしたで、もっと年賀状を書きたい!という気持ちが湧いてくる。けれど、いい気になって人数を増やすと、未来のわたしの首を絞めかねない。だいたいどうやって増やすのか。無差別攻撃か。しかも最近はメールで済ませる方も多いと聞く。
今年はもう大掃除もすこしずつ始めていて、なんだわたしはそんなに新年を迎えたいのか!と驚いてしまう。
みなぎるやる気。うちじゅうの網戸を洗い終えたわたしに母は言う。
「月曜、雨降るらしいで」
降ればまた洗うさ…と黙ってうなずくわたし。なにがそうさせているのかは、本人にも解らない。
来年の手帳を選びに行く。
みなさまにも手帳に求める条件があるだろう。わたしの場合は、
なのだが、今回はそれに加えてウィークリー部分がバーチカルタイプのものを使ってみたかった。そのため、オーディションは非常に難航し、売り場のお客さんが軽く5回転は入れ替わるほどに悩み続けていた。わたしはどうでもいいことほどよく悩む。
中身はこちらの手帳がいいな。でも、煉瓦色のようなオレンジの表紙も気になるなぁ…。あ、でもこれバーチカルじゃないや…メモも少ないぞ。
外見はこっちで、中身はあっちの!とおもうものがあったのだが、同じ会社の製品なのにそこは融通をきかせてはくれない。世界はわたしのために廻っていない。そんな真理を手帳探しでわざわざダメ押されることになろうとはな!
どちらにしようかな天の神様の(以下略)…をしてみたり、値段で決めようとしてみたり(でも同じ価格)、いっそのことまったく違う線で攻めてみたり。最終的には「手帳って…いるか?」と自問自答したりしながらも、来年の一冊を選びだした。
決め手はやっぱり中身でした。
けれど、そうはおもっても、一旦嫌気がさしたあと、どう自分のテンションを維持するかは、やはり(自分好みの)外見がものをいうのではなかろうか。
帰りの電車であらためて迷いかけたが、もう一方の候補手帳のことをすでによくおもいだせない自分に気がついた。
たぶん、わたしはしあわせだ。
玄関のチャイムがささやかに私を呼ぶ。
夕食前でぐずる息子を抱えて扉を開けると、セールスマンが立っていた。彼は苛々している私に、折り目正しく名刺を差しだす。
主人が帰っておりませんので、と頭を下げようとすると、最近いくつかの単語を話すようになった息子が「サカナ!」と叫んだ。息子は名刺にある『魚』という漢字をしきりに指している。
セールスマンの魚住さんが、にっこりとして口をひらこうとしたその瞬間。その唇からぼわりと大きな魚が飛びだした。
(魚)住さんは途端に脱け殻になって、三和土にへたりこむ。わたしは慌てて宙を泳ぐ魚を追いまわしたが、つるりぬるりと開いた窓から逃げられてしまう。残された鱗が西日の差す部屋で、お天気雨のようにきらきらと散った。
困った私は冷蔵庫をあさり、奥から冷凍さんまをひっぱりだす。霜だらけで脂の黄ばんだそれを、(魚)住さんの喉に突っこむ。
ぱちりと目覚めた魚住さんは、来た時よりも随分のっぽになって、ぎくしゃくと帰っていった。
うちにある『ノルウェイの森』の単行本は、1030円だ。今もそうなのかな。
はじめて『ノルウェイの森』を読んだのは小学生の時で、以来わたしの分類ではグロテスクな本としてしまい込まれていた。まぁ、そうなるのも仕方がない。『長靴下のピッピ』だとか、椋鳩十からの『ノルウェイの森』だから。
特にわたしが読書家だったというわけではなく、親の本を漁るほど暇だったからなのだが、うっかり大火傷だ。因果関係があるのかないのか、高校生になっても保健の授業で吐き気をもよおしていた。
今読み返してみれば、素敵なひとたちのいる素晴らしい作品なんだけれど、年端もいかないガキが読むものではない。しかも、わたしは大人びた子供でもなかった。
とめなさいよ、両親!
最近、『ノルウェイの森』映画化の宣伝が活発なせいで、母が
「あー、なんかこの本、うち買ったわー。読んだっけなぁ?」
と首をひねっていた。
我が家は漫画やテレビにやたらと規制がかかる家風だったのだが、そこはガラ空きかい。
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