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鬼の首

ニッキは食べられるけれど、シナモンは徹底して拒むわたしを、困ったひと扱いしないで。

アップルパイやチャイを口にするときに「うべっ」という顔をするわたしが、八つ橋をもぐもぐ頬張っているのをみて、腑に落ちない顔をしていた知人友人各位にお伝えしたい。

ニッキとシナモンは、似ているけれどちょっと違うそうだ。

ニッキとシナモンは、似ているけれど一応違うみたいだ。

 

以上。これからは、違いがわかる女として見直してほしい。

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世界の終わりがくる日まで

すこし前まで、稀に道端で会った同級生やしばらく連絡が途絶えていたひとと別れる際に交わす言葉が

「そういえば、mixiやってる?」

だったのが、みるみるうちにツイッター。

 

先日も、友人がツイッターをやっているから見に来てね!というので、ちょこちょこ覗いているが、盛況であればあるほど、誰が何をつぶやいているのか、まったくルールが解らず、もういいや…と現実に引き戻される日々。

面白いからやろうよ!とのお誘いを受けることもしばしば。

巷では、ブログは終わったとか言われているようだが、すでにわたしは、おそらくツイッターとあまり変わらない気持ちでつぶやいてきた。なので、今更ツイッターはしないとおもう。

ちょっとつぶやきが長いけど。

あいつ、つぶやきが昂じてしまいには詩吟やってんじゃねーか!くらいのニュアンスで、遠巻きにみつめていてほしい。

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ポスト

「なりたい自分になる!」なんて、ちゃんちゃらおかしいやい。

 

お昼寝しようと甥を誘っているのに、いつもなかなか布団に入ろうとしない。

眠くてぐずぐずしているせいでうまく遊べなくて、よけいにぐずるという悪循環だ。寝ろよ。

しばらく声を掛け続けていたが、業を煮やしたわたしは、おもむろに髪をまとめていたヘアクリップを外した。

ハエトリソウに似た形状のクリップだ。かちかちと開閉させてみると、ラインストーンの並びが鱗みたいに光る。

すると、そのヘアクリップがすごい勢いでわたしに噛み付いてきた!

「きゃあぁあぁ!たすけて~!痛い!痛いよ~!」

叫ぶわたし。甥は仰天して、部屋の隅へ逃げる。うつ伏せるわたし。ヘアクリップが甥の方を向く。

…おい(低い声)…。

おい、おまえ。名前なんや?

「…にさい…」

ちゃうやろ、それ。年齢やろ。…まぁ、ええわ…。

自分、なんで昼寝せえへんのや?

「……」(さっと布団に入る甥)

なんや、寝んのか?

「ねえねえ(わたしのこと)は…?」

ねえねえか。ねえねえは寝た。ま、気ィ失ってるのに近いけどな。

自分、ちゃんと寝なあかんねんで。疲れてふらふら遊んどったら怪我するやろ。

今ぱっと寝てすっきりして遊ぶか、苛々して遊び続けるか。どっちが得なんや、っちゅう話やな。

「……」

目ェ瞑っときや。ほな、ワシその間に行くさかい。

「こわい…」

瞑っとけ、つーてんやろ。

 

甥は半泣きで何度か目を開けていたが、ヘアクリップに凄まれ、怯えながら寝た。

 

それからというもの、甥は前髪用の2センチほどのヘアクリップまで、怖がるようになってしまった。

一応この効果を持続させたいので、パクパクさん(ヘアクリップの精の名称)はめったに登場しない。しかし、出てきたときは「おい」の一言で甥は逃げ惑う。

わたし的には大いに満足しているが、今日、はっとおもうことがあった。

 

このわたしのポジションは、親族に必ずひとりはいるという“子供にあることないこと吹き込むふざけたおっちゃん”のポジションではないのか。

おんなだてらに、そんなポジションを守ることになるとは、一年前は想像だにしていなかった。

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音ボンベ

頼まれたCDを探して、タワーレコードに流れ着く。

普段、わたしがCDを購入する時は、もっとおとなしめの(?)ショップに行く。タワーレコードはお洒落なひとが行くところだとおもっているのだ。わたしには、店員さんがほぼバンド組んでるひとにみえる。その上、わたしが利用できる立地のタワーレコードは、若い子向けのファッションビルの最上階にあり、二重の意味でわたしは呼ばれていないと感じる。

目的のCDを見付け、お会計をするまえに他の気になるCDをチェックして行こうかねぇ、とうろうろする。

試しに聴いてみようとおもったが、生憎気になるCDの入っている試聴機はすべて埋まっていた。

けれど、タワーレコードの試聴機は、なぜイヤフォンがふたつ付いているのだろう。

予備だろうか。

カップル推奨?

それとも、相席スタイル?

 

『No music, No life』を謳っているだけに、いつでもグルーヴに身を委ねていないとほんとのほんとに死んじゃうというお客さんが多いのかもしれない。息を継ぐように、他人の視聴をお借りできるシステムなのかもしれない。

わたしが視聴していても、息絶え絶えのひとが「…っ…すいませ…ココっ、いいですか…っ」と雪崩れこんできたら、どうぞと言わざるを得ない。

イヤフォンひとつしか付いてなくても、譲るな。

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グッドデザイン賞

お墓参りに行く。

当初は霊園内の奥の方に、何故かぽつりと離れていたタキガワ家の墓だが、最近は続々とよその墓が増えてきて、どこにあるのか見失いがちになってきた。

親族は曲がり角の見極めに苦労しているようだが、わたしがいつも

「久龍さんとこで曲がるねん」

と、ナイスアシストをしている。

最近は、横長の墓石も結構多い。くまのプーさんの石細工が添えてあったり、ハートや天使の翼の彫りが入っていたりして自由な感じだ。けれども稀に名刺受けのあるような古風な墓もあったりして、写真に撮っておきたいくらいうっとりする。撮らないけど。

○○家、などと入れるところに、すきな言葉や漢字が彫ってあったりすると、故人様やご親族に想いを馳せざるを得ない。

恋とか希望とか絆とか。みなさん前向き。
やっぱりそういう方だったのかしら。

わたしなら何と彫ってもらおうか。

『雨垂れ石を穿つ』

説教みたいか。

下手すると、あのひと何も穿ててなかったよねー…と笑われていそうだ。

 

ならば単純に、私のすきな漢字 『閂(かんぬき)』 を採用しよう。

初めて『閂』と出会って感じた衝撃は今でも忘れない。おふざけか苦し紛れか。頓知をきかせたにしても、あまりにも無邪気なそのフォルム。

しかし四の五の言えない、その美しさよ。

わたしは『閂』の素晴らしさを、少なくとも三代先までは伝えたい。

と中央に彫りこまれた清らかな墓。簡素だけれど凛とした墓。お骨を納めるところに、実際にかんぬきを配してもいいかもしれない。ああ、でもお盆の時出て来れないか?じゃあ、内側に。

改めておもえばかんぬき自身も、シンプルでいて頼りになる、なんて実直な装置なんだろう。そこへきて、そのかんぬきのイメージそのままを体現する『閂』。互いがこれほどに渾然一体となった漢字を、わたしは他に知らない。

 

血がたぎる。

みんな早くその魅力に気付いて!いや、気付かないで!

相反する感情で、今にもちりぢりになりそうだ。

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コンシェルジュ

ああ、もやもやする。

さっきから、ある歌のでだしのメロディが頭に駆け巡っているのだが、曲名も歌詞もサビも全く浮かんでこない。

前に友人が、携帯電話にハナウタを聴かせると、その曲が何なのか判明する検索方法がある…と言っていたので、今利用してみようか迷っているところだ。

しかし、わたしは歌が苦手だ。リラックス状態でも抑揚のない歌声をしているのに、緊張したらどう出るのか。自分でも解らない。

だいたいどういう仕組みになっているのだろう。電話の向こうの機械に向かって歌うのか?いやだ、そんな孤独な光景。ヒトとして耐えられない。

写メールで自分撮りを練習していたところ、ふと気付けば親が傍らでニヤニヤして見ていた…ほどの恥ずかしさだ。若いひとは平気なのかもしれないが。

けれど誰かに向かって歌うのもどうだ。まだ世の中はそんなにアナログか?

「あ、すみませんお客様…もう一度…」

何回も歌い直しさせられた挙げ句、

「うーん、邦楽ですよね?…ちょっとちょっと!キムラさーん!」「はいはい」
「キムラさん、この歌知ってる?」
(促され、歌うわたし)
「えー、最近の歌かなぁ…。あ!サイトウさんが手ぇ空いたみたい!…サイトウさーん!悪いけどこっち来て~」

そうして結局、たらい回しになったりはしまいか。

しかも、曲名が解ったら解ったで、10年以上前の女性アイドルの楽曲をうっかりくちずさんだりしてしまうわたしのことだ。一体なにがでてくることやら。油断できない。

今、流れでてくる旋律も、キュートかつセンチメンタルど真ん中という曲調で、どうもあやしいんだよなぁ。

 

わたしだって、もっととんがった歌を愛したいのに。

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Mのトマト

足りないことの多いわたしの人生だが、おいしいトマトに恵まれる星のもとに生まれているのか。求めずともそこには、いつも素晴らしいトマトとの出会いがあった。

子供の頃は、近所のお百姓さん(みんなそう呼んでいた)から貰った完熟トマトを頬張って育ち、小学3年生で今の土地に引っ越してきてからも、いただき物や、近くの畑で採れたてのこだわりのトマトを当然のように貪っていた。

わたしの人生とおいしいトマト。

わたしがこの蜜月関係に改めて自信を持つに至る出会いが、あったのだ。

去年のこと。隣駅の、うちから徒歩20分弱のところにあるスーパーに、わたしは出掛けた。その商店街にはいつもお豆腐を買いにいくのだが、何の気なしにそのスーパーに行くと、お世辞にもおいしそうには見えないトマトが並んでいた。

うす紅に色づいた桃太郎の隣に。

おいしくなさそうなトマトは、地元の農家のMさんが育てたトマトだと書いてある。ほほう、とその殆どが緑色をしたトマトを眺める。

「とてもおいしいトマトです。Mさんはトマトと話ができるそうです」

ほんまか。

わたしは固くてごろりと大きなMさんのトマトを手に取った。

トマトと話?

じゃあなんでこんなに青いんだ?「わたし食べ頃よ」ってこの青いトマトが言ったのか?騙されてはいないか?Mさん!それともただ、茶飲み話をしてるだけなのか。

わたしのトマト(食べ)人生を試しているのだな!

 

ひとつ買って、食べてみた。

やわらかくはなかったが、しゃりっともしていなかった。甘いとも、酸っぱいともおもわなかった。おいしい、と考えるよりも先に、おいしい…と感じた。

あー、トマトってこういうのなんだ…と黙ってしまう味がした。

 

実際、冬の間は「Mさんのトマトっておいしいんだよな」とおもうものの、どういう味なのかは言葉にできない。

今年もトマトの季節がやってきて、何回も食べたが、飲み込んだ瞬間にその感想は淡雪のように消えてしまう。

トマトのおいしさってなんだろう。

 

しかしMさんのトマトはいつも青くて、すこし追熟して食べてみようとはするのだが、青いまま、あればあるだけ食べてしまう。

 

そして近所の人たちとの話題に、Mさんのトマトがあがったこともない(やはり地元で人気のOさんのトマトの話はする)。みんな、知ってるとはおもうのだけれど。

Mさんは妖精なんじゃなかろうか。

大きな声では言えない。

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