« 2010年3月 | トップページ | 2010年6月 »

ねぎを愛でる

ねぎを買い忘れた時の保険として、すでに食べてしまったねぎの根っこを土に挿しておいた。

しばらくはひょろっとしろい棒が突きでているようだったのが、米のとぎ汁などをやっていると濃い緑がわさわさ伸びて、なかなかおいしそうな風情。

よしよし、とほくそ笑んでいたが、せっかくねぎをきらしたとしても、まだねぎ栽培のことがタキガワ家では定着していない。人間は、ねぎがない~と、騒ぐばかりで、その間にベランダのねぎはにやりとその背を伸ばしてゆく。

そしてついにねぎぼうずのつぼみをつける、ねぎ。

野菜の価格が高騰する現在。ただ眺めるためのみに野菜を育てる、この雅な振る舞いよ。

 

ほんにのぅ。どうすっぺ。

| | コメント (2)

CO2削減

母がわたしを呼ぶので、なにかとおもえば、テレビにでているボイスパーカッションのひとが凄いということだった。

ぼんぼんきゅきゅきゅ…的な解りやすいボイスパーカッションだけでなく、スーパーマリオみたいな曲にチキチキ音を重ねたりしていて、どうなっているのか不思議なくらい。その喉が大忙しの模様を、大騒ぎしながらみる。

しかし、電子音を人体で再現した最初のひとのきっかけはなんだったんだろう。物真似の一環? テルミンみたいな電子の楽器を買えなくて、諦めきれずに? 電気なんかに負けねぇぜ、という気持ちで? 迫りくる資源の枯渇に危機を感じて? 

 

昨今、便利な機械だったり、時間やエネルギーの節約とか、合理的なんて言葉が溢れる時代。わたしのように余計な存在のひとにはなかなか肩身が狭い。

けれど、その行く末が、「大概のことをヒトの肉体ひとつでできるように進化する」というところに向かうなら、わたしも頑張ってみようじゃないか。

あんまり欲張っても人生は短いので、それぞれの得意分野を、みんなで分担して研ぎ澄ませてゆくのがいいとおもう。

 

とりあえず、ホーミーからはじめればいいだろうか。

あ、でもわたし歌は得意じゃないんだった。

| | コメント (2)

みんななかよし

自転車にはまっている。

今まで、年に1回自転車に乗ったら「今年は自転車イヤーやなぁ」とおもってしまうほど、乗らなかったわたしが、乗り回している。

自転車はすごい。意外に遠くまで行けることが嬉しくてしょうがない。

昔、酔っ払ったイキオイで、5時間以上かけて歩いた道も、自転車なら1時間ちょっとだ。なんて素敵!

でもこの齢で自転車のスピードに目覚めるなんて、60歳くらいになってようやく自動車の免許を取る寸法か。

 

しかし、わたしの交通ルールが曖昧なせいか、しょっちゅうよそ様の自転車の進路を邪魔してしまって申し訳ない。

小学生の時の交通教室で、なにやら習った記憶はあるが、肝心なことはまったく憶えていない。右(前輪)のブレーキを先にかけると、タイヤが浮いて危ないので、左(後輪)のブレーキをかけてから時間差で右、という情報くらいだ。

小学校で教わることは、こちらもなめてかかっていたりしたけれど、大切な事柄が多い。もっときつく忘れるなって言ってよ!当時のおとな!とおもうけれど、はじめておとなになるまで、こちらも気がつかなかったのだ。人生の一回性を識る。

 

話は変わる。

男性は「女子は群れるのが解せないんだよなー」とか、言うでしょう。まぁ、女性でもそう言う方はいるけれど。

そこで注目したいのは、男子高校生の群れ様だ。

前方から自転車の男子集団が拡がるように押し寄せてきて、わたしが「片側に寄れよ!」オーラをだしているにもかかわらず、そのままみんな楽しそうにしていて、そうかそれなら…と何度自転車を降りる羽目になっただろう。

最近の傾向なのかもしれないが、わたしが高校生の頃からすでに男子は群れていた(つるんでいた)。

よく妻と一緒にでかけたがる夫の話も聞く。なんだよー、結局、男性もきゃっきゃ言いたいんでしょ?なのに、悪く言うなんてひどいじゃない。

  

ヒトは群れる。これでどうだ。

| | コメント (6)

勝手

 ちょっとした諍いの、戒めのつもりで恋人の家を飛びだした。夜の田舎道はひと気がなく、見渡すかぎり暗くて、孤独を感じる隙もない。風もないのに、叢が揺れた。

 あ。

 声を発する間もなく、私は地中に引きずりこまれていた。アイシュルル……アイシュルルという囁きに似た鳴き声で、自分がジアイモグラの棲み処にいることを識る。

 この一帯は、彼らの繁殖地であった。

 黒く艶やかなモグラの目が、私を見下ろしている。落ち着きのない、遠慮がちな仕種で周囲を嗅ぎまわりながらも、私をかき抱く前肢の力は緩むことがない。

 ほんのすこし高い体温が、じわりと私に伝わってくる。モグラが身体を捩るたび、アイシュルルと呼気がかかる。巣穴を埋め尽さんとばかりに膨らんでゆく。ほたほたした柔らかな肉が、私の鼻先にまで迫った。くるしい。粉っぽい濃密なモグラの体臭に悪寒がする。

 気力の果てた私は、朦朧とモグラの顎を眺めているしかなかった。

 アイシテルアイシテルアイシテル

 モグラが喉を震わせて言う。それを聞くごとに私は、穴より深い場所へ沈む。 

| | コメント (0)

親の一面

もうすぐ2歳の甥っ子に、絵を描いてやる。

彼はわたしに会うと、真っ先にスケッチブックと色鉛筆を持ってやって来て、「じ!(字)」と言う。

「なに描く~?」

わたしが訊くと「おに!(鬼)」とか「はんしん(虎)」とか「さぼさん」とか言うので、延々それを描く。(さぼさん、はNHK子供番組のキャラクター)

 

その甥っ子がお昼寝をしている間に、妹と買いものにでたら、彼は予想より早く目覚めてしまったようで、家に帰った途端ぐずぐず泣いている声が聞こえた。

あーあ、とおもいながら居間に入ると、わたしの父と母が甥をあやすために絵を描いてやっていた。その絵がものすごく衝撃的だったのだ。

うちの母は絵が上手く、学生時代に描かれた落書きをわたしも何回か見たが、かなりの腕前だった。しかし、その甥に描いていた絵は、線はよろよろして形がまったく定まっていなかった。

母自身も、久し振りに絵を描いてみて、おもい通りに線を引けない自分に驚いたそうだ。

そして、父の絵はというと、家族の誰もが父の描いた絵を今まで見たことがなかったのだが、それもそのはず、下手だったのだ。

ひとくちに下手な絵といっても、マル描いてチョンといった感じの、対象のディテールすらすっ飛ばした絵や、「こんな雰囲気」というのを纏め上げた結果、超シュールな作品に仕上がった絵など、いろいろある。

そのなかでも、父の絵は「擬人化タイプの下手絵」だった。

たまにあるでしょう。人間じゃないものに、眉毛とか足とか描いてある惜しい絵が。

父の絵も、蛸の8本の足のうち、2本の触手が長いという「正解」を見事に叩きだしつつも、眉毛アリという哀愁満点な表情を持っていた。眉毛描いちゃうと、蛸の口が単にとんがらがしてるように見えちゃうんだってば。「蛸のはっちゃん」感が醸しでちゃうんだってば。

しかも、吸盤のひとつひとつや、ぐったりした水揚げ直後のヌメリがものすごくリアルで、はっちゃんのラブリーさをも打ち消してしまう。

 

甥っ子は、寝起きでぐずっていたわけではなく、「こわい」とそれを見て泣いていたのだった。

 

わたしは15年近く水彩画を習っているのだが、今回のことで、一度体得した技術もいつの間にか消え失せてしまう、ということを識った。

それに、わたしの身体を流れる血の半分は、父のものなのだ。ぼんやりしていると、わたしも「なにがなんでも擬人化」界に堕ちてしまうやもしれぬ。

 

テレビを観て、「なんで眉毛描いちゃうのかねぇ」とダウンタウンの浜ちゃんの絵を笑っていたわたしはもういない。

| | コメント (2)

空白の木曜日

二週間ほどまえまでNHKで放送されていた、「毎日がイタリアン」という、でも木曜日のみの、料理番組が忘れられない。

木曜日がさみしくてさみしくて、たまらないのだ。

 

その魅力をうまくお伝えできる自信がない。

お洒落な広いキッチンで美しい女性がお料理する…という外国の番組だ。全6回ほどだったのだが、簡単だけれど本格的なイタリアンの作り方が観られて、愉しかった。

料理をする女の人がアクセサリーなどもばっちり身につけ、長めに整えた爪にマニキュアを施していたり、日本では考えられないスタイルだった。そのままパーティに行けそうなドレスアップをしている回もあったしな。

 

それ以外の見所の一部をご紹介すると、

いつも計量が曖昧

ハーブは植わっているものを直接ぶちぶちっと千切る (というより毟る)

盛り付け終えた料理の全貌をアップでみせる気もなく、まな板の上で即食べはじめる(毎回)

いろんな食材のパッケージもそのままで気にしない (銘柄を紹介するというわけでもない)

最終的にでるレシピが「4~6人分」

子供と一緒に料理する回では、子供好き放題 (砂糖壺を抱えていつまでもつまみ食いしまくったり、関係ないことばかりしてたり、チョコレートクッキーをつくりながら「チョコレート嫌い」と言ったり。最終的に砂糖壺は隠され、子供は外で遊ばされる)

 

カルチャーショック、というか、わたし達はテレビに対して注文しすぎだよな、と褌のひもを締めなおす気持ちにさせられた。まあ、そのテレビとの比較しての面白さ、という要素は充分にあるが。

いままで、外国への興味が全くなく、むしろ頼まれても海外なんて行きたくない!とおもっていたのだが、いいかもなー。外国。 

再放送でも、続編(?)でもいいから、また観たいものだ。料理しているシーン以外にも、女のひとがニューヨークの街を歩いていたり、木陰で微笑んでいたり、グラビアみたいなサービスショットも多数あった。

 

決して賛成はできないが、今NHK受信料が値上がりしても文句は言えないくらい、わたしはNHKを観ている(昔から)。

ありがとう、NHK。これからもどうぞよろしく。

| | コメント (0)

ギョニソー

あまりハムやウィンナーを食べない。そのせいか、わたしが「魚肉ソーセージ」と呼んで食べていたものが、実は「畜肉ソーセージ」だったことが今更判明。

なんだかこのソーセージ、全然おいしくない。安かったから?と母に相談してみたらば、

「いやっ、あんた買ってきたん、これギョニソーやん!お母さん魚肉のヤツすきちゃうねん」

と叱られたのだ。

 

ショックを受けるとともに、これが全国でもてはやされておる魚肉ソーセージか…!と戦慄を覚えた。テレビで聞くやつはコヤツのことだったのか。

畜肉の方がおいしいのに!(個人比)

魚肉って、初めて食べたけどぼんやり味をしている。

  

 

もう間違えない。

ホットドッグにいれるのは、カレー風味のキャベツと伊藤ハムのポールウィンナー!

 

ポールウィンナー!

| | コメント (5)

魔物

舞台には魔物が住む。というより、舞台俳優が魔物なのではないかとおもう、今日この頃。

 

鞄の中身を入れ替えようとしていたら、先日観劇した知人の出演した舞台のパンフレットが入れっぱなしになっていた。

そのお芝居には女子高生の役があり、もう成人の役者さんが、制服を着て演じていた。

あまり演劇のことはよく知らないが、わたしが観るのは小劇場で活動しておられる劇団のものばかりだ。たまに新聞広告で、大きな劇場で、テレビにでているひとがやるお芝居の情報が載っているのをみるが、壮年の役者さんが若者役をしていたりして、混乱してしまうことがある。

今回の女子高生も、初見では違和感があったものの、話が進むにつれて女子高生としかおもえなくなってくる。でも、カーテンコールの時に改めてはっとなったけど。

 

毎日普通に労働していたり、道を歩いたりしている生活者が、「舞台に立つ」ということだけで、女子高生になったり、銀の全身タイツに包まれたり、水着になったりできるのって、相当変なんじゃないか。

それができる特殊技能が「俳優」ってことなんだろう。けれど、その能力は「絵が描ける→画家」 「お洒落が上手→服飾関係」とか、そういう特技の域を超えている気がする。

どんな職業も、極めようとするひとは、多少の狂気を持ち合わせているとはおもう。でも、なんだかその色合いが、違うというか、なんというか。

 

単に土地柄だとか、わたしが似たような属性の役者さんばかりと知り合っているのか。

以前、友人の所属する劇団のお手伝いをしていて、役者さんのことをじっくり観察する暇があったのだが、その間、俳優の歓びってなんだろうなぁ、とよく考えていた。

脚本を書いたり、舞台演出をしていて、なおかつ出演もしている…というひとではなく、演じることのみを専門とする役者さんのことだ。

自分の頭のなかに存在するものを、何らかの方法でひとに披露できる状態に持っていく…ということに関しては、一応理解できるつもりだ。でも、その他人の勝手なイメージを投影されて自分を表現するというのは、どういう気持ちなんだろう。無口ながら、頑なに自分を持っているひとばかりだった。いらいらして、うるせーよ!とかならないのかな。

じゃあ、訊いてみれば? と言われそうだが、なんだかみんなひっそりとしていて、野生の草食動物みたいで、近寄りがたかったのだ。

 

頑固、でもある意味自己犠牲の精神には溢れ、おとなしいが、いざというときには爆発的に弾ける、腹から声のでるイタコ的なひと。

 

やっぱり、俳優って変だとおもう(褒めてます)。

| | コメント (2)

« 2010年3月 | トップページ | 2010年6月 »