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水浪漫

 夏休みに訪れる田舎で、私はいつも道に迷うことにしている。

 深い緑を纏ってひとり歩き続けると、生温かい木々の呼吸に混じって兄がいる。葉の上にとまった甲虫を、虫眼鏡で覗き込んでいる。軽い安堵と眩暈が私を襲う。

 この季節、この場所でしか兄には会えない。だから私がおもうのは、雪が降っていても、花が咲き乱れていても、いつも夏服の兄のことだ。

 いつまでも変わらずに細い、兄の腕が私を抱いた。日常と脂肪を重ねた私の体よりも、その肌はみずみずしい。熱を持たない兄に触れられると、私はその足元に平伏したくなる。

 あの日の白いワンピース、再生する森、兄だけだった日々。夏を待つ間に少しずつ、保てなくなるテンション。

 今ではもう、私はかなぶんすら摑めなくなったし、ひとりぼっちでもなくなった。

 目の前の兄の肩が、力を込めたように震えた。私は自分の体から流れるものが、汗なのか、涙なのか、それとも植物たちの吐きだす露なのか、皆目てんで解らない。

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