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 ここ数日で、急にいれ歯が緩んできた。どんなに注意深く咀嚼しても、コトリとずれる。その微妙なずれに耐えられず、私は口のなかのものをすべて吐きだす。一対の生温かい歯と歯茎が食卓に転がる。ねとりとなった食物が、私の膝を汚して床に散る。

 それから私は、ただただ茶碗の水をねぶって過ごした。日に何度かは、歯をいれてみることもある。コトリだったずれはキュイキュイと擦れはじめ、しまいにはカチン、カチンと滑り落ちるようになった。

 痩せて縮みゆく肉体に、時が近づいてくるのを識る。

 独りきりの夜。私はちいさなブラシでいれ歯を磨く。念入りに手をかけた歯茎は透けるような桃色に煌めく。健やかだ。どんなにかたいものを噛み締めても、きしむ心配はない。

 まだ濡れたままのその歯に、私はくちびるをつける。コココとこきざみにいれ歯が震え、迷いのない、圧倒的な力で私を貪る。

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