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 右目から涙が溢れてとまらないので、目医者へ行く。角膜に傷がついたのかもしれない。久し振りの眼鏡で眩暈がする。

 私の瞼を強く押し広げながら、医者は言った。

「最近、なにかを喪いましたね」

 心当たりを挙げよ、と言われるが、喪ったものどころか得たものさえもおもいだせない。

「気付いていらっしゃらないのは重症ですね」

 衛生的な湿った指が私の頬に触れる。この指は、舐めても何の味もしないのだろう。うわの空でいる私に、医者は私のような患者専用の治療室があると教えてくれた。

 その部屋は、静かに涙を流し続ける人々が、じっと身じろぎもせず佇んでいた。やさしい目をして医者は、私の背中を押す。あの、でも、と口の中で呟いている私を無視して、なお断固として微笑む。

 清潔な笑顔を残して、医者がばったりと扉を閉めた。とたんに室内の空気がねっとりと澱む。汗に似たひとの匂いに包まれる。

 思考を停止させられたまま、ただ茫々と私達は涙を流し続ける。

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